小説の森を歩く

読んだ本の感想などを、心のままに綴っています。

ある男 (平野啓一郎)

平野啓一郎著「ある男」を読んだ。
 単行本の帯に
「愛したはずの夫はまったくの別人だった」とあって、読む前は「どういうことだろう 。面白そうだな」と、あまり深く考えずに思っていた。そして読み終わった 今、 別人という言葉が、なんとなくしっくりこない。別人も何も、愛した夫は、その愛した夫 ひとりしかいない。戸籍上の名前が 実は違ったことを「別人」としているけれど、どんなに誰かになりすまそうとしても、人はやっぱり その人自身でしかないのではないだろうか。という気がした。
 インターネットを経由して相手と会うことなく交流する場合は多少違ってくるかもしれないが、目の前に 実体があって、その人と言葉を交わし 時間を共に過ごしていたら、たとえ 過去を偽られていたとしても、戸籍上の名前が違ったとしても、目の前のその人と過ごした時間が偽物だったということにはならないように思う。
 この物語では夫となったその人の家族と連絡を取ったために、夫の戸籍上の名前と実体が一致していないことが問題になってしまう。戸籍は家族のつながりを示すものとしてはとても重大で大切なものであるけれど、家族と切り離して 個人をただ一人の人として認める場合、大した意味を持たないのではないだろうか。
 そう考えると、人の名前も過去も、その人自身がその人自身であることを示すための、ほんのきっかけのようなものに過ぎない、という気がしてくる。
 私はいつの頃からか、「言葉の使い方には 人間が出る」と思うようになった。その人がその人自身であることを判断する基準のようなものは、その人に関わる 相手次第で違ってくるのかもしれない。

ある男 (コルク)
ある男 [DVD]

正欲(朝井リョウ)

 朝井リョウ著「正欲」を読んだ。
 深く静かな衝撃を受け、考えさせられた。
 この社会にとって想定内のマイノリティと想定外のマイノリティがある、ということは、これまでほとんど意識していなかった。
 「好み」という言葉があるけれど、好きだと思う気持ちは理由はなくても成立するわけで(と私は思う)、「好きだから好き」という論理を正当なものと受け取るならば、「嫌悪感」にも理由はいらないことになる。実際「嫌なものは嫌」と言われたら返す言葉はなくなり、相手の「嫌だ」という気持ちを受け入れるしかない。と、私は思うが、そんな私の想定の外にいる人がいてもおかしくはなく、そのような人にとっては「これを嫌だなんて考えられない、どうかしている」となるのだろう。すると同様に「これが好きだなんてどうかしている」となることもあり得ることになる。人の好みを他者がとやかく言うことほど無意味なことはないように思うけれど、人を殺すことが大好きで殺さずにはいられない、という人がいたら、とやかく言うどころの話ではなくなる。人殺しの例は極端だけれど、どこまでを「好み」の範疇として捉えるか、またはどこまでを「よくあること」として捉えるかという点が、既に人それぞれであるのに、それぞれであるからこそ、大多数が描く輪郭のようなものが「常識」と呼ばれてしまうのかもしれない。
 誰もが「他者を理解できないことなど当たり前」という前提に立っていれば、多様性を尊重するのは意外と容易になりはしないだろうか。そして、それが本当に尊重される社会なら、多様性という言葉は不要になるのかもしれない。
 

誰も知らない夜に咲く(桜木紫乃)

 桜木紫乃作「誰も知らない夜に咲く」を読んだ。
少し前に(数ヶ月前だろうか)ラジオ番組の朗読でこの作家の、たしか「冬ひまわり」という短編を聞いた。(冬ヒマワリ、又は冬向日葵、かもしれない)その物語が心にしみて、以前読んだこの作家の「ホテルローヤル」も面白かったなぁと思いだした。

 「誰も知らない夜に咲く」も短編集だが、どれも有りそうで無さそうな、無さそうで有りそうな物語で、おそらく自分の身には起こらないことだし、自分の日常とは別世界の話だったりもするのに、全編を通してなぜか他人事とは思えない感触が残った。それは「感情移入できた」とか「リアリティがある」とか、そういう言葉で説明できるものではない気がしていて、私としてはやはり「他人事とは思えない感触」としか言いようがないものだ。

 より抽象的な表現になるのかもしれないが、別の言い方をすると紫乃さんの作品を読むと、心を湿らされる感じがする。潤うというのとは違い、胸の内側が湿って、ほんの少し重さを増すような、厚みを持つような、そんな感じだ。 この本は何年も前に出たものなので、これ以降の桜木作品も未読のものがあると思うと読むのが楽しみだ。


旅する練習 (乗代雄介)

 乗代雄介著「旅する練習」を読んだ。
 風景描写の多い本だった。タイトルに「旅する」とあるように、目的地までの旅の道程を軸としていて、旅の中で目にする景色が次々と描かれていた。
 そのことと関係があるかどうかはわからないのだか、私にとってこの本は、普段読んでいる他の小説とは少し感触の違う本だった。何が違うのかはっきりとは言えないのだが、感覚的には、普段の読書が舗装された道をスニーカーでスタスタ歩くように進んでいくのに対し、この本は砂利の上を裸足で歩いているような感じがあった。最初の四分の一か五分の一くらいは特にそうだったから、段々に慣れたのかもしれない。では読みにくかったのかというと、そういうことでもない気がする。砂利道はスタスタ歩くには適さず、一歩一歩ふみしめた方が楽しめるということだろうか。しかも裸足の方が砂利を感じることができる。初めは砂利道だったのが、どこからか芝生になり、砂浜や遊歩道なんかも通ったのかもしれない。こんな言い方は、人に感想を伝える言葉としては抽象的で分かりにくい下手な表現かもしれないが、自分の感じたことの覚え書きとしては満足だ。
 旅が描かれているせいか、紀行文のような匂いを時折嗅ぎとっていたが、後半はこの本が小説であることを思い知らされるような展開が畳み掛けてきた。
 読み終えた今、小説というジャンルの幅の広さを教わったようにも感じている。




心淋し川 (西條奈加)

 2020年下半期直木賞受賞作品「心淋し川」を読んだ。
 時代小説を読むと、人が人を思う気持ちや人生のままならなさは、いつの時代も変わらずにあって、だからこそ物語が生まれるのだな、と思う。 
 何の変哲もない暮らしの中で、ある日突然、巻き込まれるようにして物語の主人公になってしまうこともあれば、当たり前の日常をただ当たり前に送っているつもりでも、その日々がこそが物語だったりもする。そもそも本人にとっては当たり前のことが、他者から見れば非日常である場合は多いものだ。
 この本は連作短編集で、とある長屋を舞台に、そこに住む人々の誰かが一編ごとに主人公となっている。私が特に胸を突かれたのは「明けぬ里」というタイトルの話だ。現代ではあり得ない状況の物語だけれど、同じくらいやるせない思いというのは、今の世にも存在する気がする。この「現代にはあり得ない状況」にくるまれているからこそ、かえって真っ直ぐに伝わってくるものがあって、それが時代小説の魅力の一つなのだろうと感じた。その意味で、最後に収められている「灰の男」もとても読みごたえがあり、罪が存在することの罪ーとでも言いたくなるようなことーについて考えさせられた。





星の子 (今村夏子)

  今村夏子著の「星の子」を読んだ。
 以前、デビュー作の「こちら、あみ子」や、短編集の「あひる」も読んでいて、ひょっとするとこの作家は誰も書こうとしなかったことを、或いは書こうとしても書けなかったことを、書いているのかもしれない、と感じていた。
 言うまでもないことだけれど、作家たちは「何か」を書いている。もちろん小説や物語を書いているのだけれど、ここで言いたいのはそれらを通して「何か」を書いている、という点だ。その「何か」は言葉で説明できるものではないのだけれど、カテゴライズすることはできる、と思う。たとえば、家族愛とか友情といった枠の中に。いや、この枠組みにつける名前さえ、言葉にできるものではないのかもしれないが、枠自体は確かにあって、私の場合、「枠」が存在しているのだ、ということを今村夏子の作品によって強く意識させられた。というのも、この「星の子」に書かれていた「何か」が、私の知っているどの枠にも収まらなかったからだ。
 どうやらこれまでの私は、小説を読んだあと、その作品に書かれていた「何か」を無意識のうちに分類していたようだ。他の今村夏子作品、「こちら、あみ子」や「あひる」を読んだときのことを思い返すと、これまで触れたことのない「何か」を感じて、どの枠にも入らないからとりあえず「その他」のラベルを貼っておいたのだった、という気がしてくる。そして「星の子」を読んだいま、今村夏子という作家は、私が認識していた枠と枠との隙間にある「何か」について、書いている作家なのだ、と感じている。しかも、そこに隙間があることさえ、はっきりとは気づいていなかったのに、ここにこんな隙間があるんだよと示されてみれば、目から鱗で、隙間の存在に感謝したくなるような隙間なのだ。ニーズを掘り起こすという言葉があるけれど、読み手が(私が)無意識に読みたがっていたものを差し出してくれたのだと思う。
 客観的に見れば、私が隙間だと捉えたものを、最初から枠として持っていた読者もいて、そういう人には「あなた、ずいぶん窮屈な生き方してましたね」と、言われてしまうかもしれない。おそらく「何か」を読む、という行為は、私にとって、窮屈さからの解放につながることなのだろう。


格闘するものに○ (三浦しをん)

 三浦しをんさんのデビュー作「格闘するものに○」を読んだ。
 言わずと知れた人気作家である。ご本人がラジオのインタビューで語っているのを聞いたのだが、就職活動の際に出版社を受けたのがデビューの発端だとのこと。筆記試験に含まれていた作文の欄で披露した文章が、読んだ人の興味を引いて、何か書いてみませんかと声がかかったという。いかにも、才能が見出だされた瞬間だ。
 才能や素質と呼ばれるものは、確かに存在していると感じる。以前はそれを特別なものと捉えていたけれど、最近では誰もが持つ個性や性質の一つ、という見方もできるなと思う。つまり、世間に注目されたり、認められるような大きな業績を残す才能もあれば、誰にも認められず、何の役にも立たないように見える才能もあることになるわけだけれど。
 さて、この作家の才能はもちろん前者のわけだが、その才能を見出した人の、「才能を見いだす才能」に私は脱帽する。ひょっとしたら大勢に声をかけていて、鳴かず飛ばすの結果に終わる場合の方が多かったのだとしても。 
 
話をこの本に戻すと、主人公は就活中の女子大学生である。冒頭に置かれた短いお話は、しをんさん自身が前述の就職試験で書いたものなのではないかと勘繰りたくなるような流れだ。そうであってもなくても、主人公をとりまく環境や状況や物語の展開は、作家の想像による創造物に違いなく、私にはなんだが、登場人物たちの自分自身との格闘の度合いが、心地よく感じられた。そしてこの心地好さは、この作家の他の作品にもあったことが思い出された。
「風が強く吹いている」「まほろ駅前多田便利軒」「船を編む」など、これまで読んだ三浦作品は、いつも心酔するほど楽しめたが、今振り返るとそのどれにもこの処女作と同様の心地よさがあった気がする。心地よさというと、何か淡いもののように思えるかもしれないが、そうではなく痛快な心地よさだ。各作品は全く別の業界、別の日常、別の人物を描いていても、やはりどれもが三浦しをんの世界、ということなのかもしれない。



格闘する者に○ (新潮文庫)

格闘する者に○ (新潮文庫)



誘拐ラプソディー (荻原浩)

 2001年に刊行され、2004年に文庫化された荻原浩の小説「誘拐ラプソディー」を読んだ。
 文庫の裏表紙に「笑って泣ける」というようなことが書かれていたが、全くその通りで期待に違わず楽しめた。
 犯罪に巻き込まれたり、犯罪が絡んだ小説はよくあるけれど、この物語の犯罪者はとてもチャーミングで、人間味があって、凶悪とは程遠く思える。そして、読み終えた今になって、そう思えたのは作者の筆力によるものなのだと、当たり前のことにしみじみと気づく。
 真面目に働く代わりにギャンブルや犯罪を思いついてしまう主人公のキャラクターは、不運を言い訳にするダメな人である。けれど決して冷酷なわけではなく、子どもは嫌いと言いながら誘拐したはずの6歳の男の子と仲良くなってしまう、そうした筋書きは勿論だけれど、場面場面での、主人公の心情や子どもとのやりとりの中に表れる、つかみ所のない何かに、読む者としてとても引かれたのだと思う。それを率直に言えば、ただ物語に引き込まれていた、というだけのことなのだろうけれど。
 エンターテイメント小説、という言葉があるが、そう呼ばれるジャンルのものこそ、人間をどう描いているかで読み応えが違ってくるのかもしれない、と改めて感じた。
 

誘拐ラプソディー (双葉文庫)

誘拐ラプソディー (双葉文庫)

  • 作者:荻原 浩
  • 発売日: 2004/10/01
  • メディア: 文庫




海の見える理髪店 (荻原浩)

 荻原浩さんの直木賞受賞作「海の見える理髪店」を読んだ。
 短編集であるこの本の表題作「海の見える理髪店」を、以前、ラジオの朗読で耳にしていた。それが、この作家に触れた最初の時で、印象があまりにも鮮烈だった。
 主な登場人物は理髪店の店主と客の二人で、そのどちらもが主人公に思えるのだが、この物語はほとんど店主の一方的な語りで出来ている。小説の中に誰かの回想が描かれることはよくあるけれど、それが小説の一部でなく、作品そのものになっていて、しかも終始目の前の相手に語って聞かせている。おそらくはその形態のせいで、(朗読の効果も相まってか)ほかの小説からは感じたことのない臨場感、とでも言えそうなものに打たれた。
 話の内容はといえば、そこにもはっとさせられる仕掛けがあり、それを仕掛けと呼ぶには浅はかなことを感じさせられ、人生のままならなさを手にとって見ているような展開に愛着を感じ、この作家の他の作品も読んでみたいと思ったのだった。

 実際読んでみて、この本に収録されている他の5作品も、楽しく読めた。そして、確かに楽しく読めたのだが、その一言では片付けられない面白さと深みを感じた。特に好きなのは、小学三年生の女の子が主人公の「空は今日もスカイ」。
 軽快なリズムで、気持ちよく読まされてしまった。でも、読後の残像は、くっきりと残っている。実は重いテーマを、こんな風に扱えるのは、やはり作家の才量なのだろう。

海の見える理髪店 (集英社文庫)

海の見える理髪店 (集英社文庫)

 


マチネの終わりに (平野啓一郎)

 平野啓一郎著「マチネの終わりに」を読んだ。
 この作品は2015年から2016年まで毎日新聞に連載されたもので、昨年、映画化されている。
 序文で、主人公の二人には実在のモデルがいることを明かし、その上で著者は「他人の恋愛ほど退屈なものはないが、彼らの場合はそうではなかった」と述べていて、読んでみると、なるほどそうだろうとすっかり納得できる。
 この本を恋愛小説と呼ぶことに違和感はないけれど、そこに描かれていたものは、あまりにも広い奥行きを持った、それでいて針の穴ほどのほんの一点に焦点を定めたような、二人の生き方だったように思う。
 お互いに最愛の人であり、その人との時間を心底欲していて、社会的にもなんの落ち度もない二人が、気づいた時には引き裂かれ、その後の人生を望まなかったはずの形で送ることになるというのは、理不尽で残酷なことだ。そして
、ふと現実を振り返れば、理不尽も残酷も当たり前のように世の中に収まっている気がするけれど、だからこそ主人公ふたりを通して、こんなにも潔白な想いが、人の心には生まれ得るのだと知ったことは、私の目に映る世界をいくらか変えたように思う。たとえ明日からの私の日常に、何の変化もないとしても。
 物語に出会うというのは、おそらくそういうことなのだろう。
 

マチネの終わりに DVD通常版(DVD1枚組)

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  • 発売日: 2020/05/27
  • メディア: DVD



ゴールデンスランバー (伊坂幸太郎)

 伊坂幸太郎作、ゴールデンスランバーを読んだ。 初出は2007年で、2008年の本屋大賞と第21回山本周五郎賞を受賞している、ということを今回文庫を手にとって初めて知った。
 これまで、この作家の作品は映画になったものを観るばかりで、振り返ってみると小説という形のまま触れたことがなかった。そして映画として観た彼の作品はどれも、私にとっては心情に訴えてくるものが多かった。ストーリー展開も当然気にはなるし、それを軸に話に引き込まれていくのだけれど、最終的に伝わってくるのは人と人の繋がりとか思いとか、そういったものだったと思う。物語は心理や人物を描くために必要な設定なのだ、と言っては言い過ぎだろうか。(そういう場合もあるだろうし、そうでない場合もあるだろう。)
 「ゴールデンスランバー」も映画化されているが、それを観ないまま今回小説を読んでみた。すると、なにしろストーリー展開に強く引き付けられた。次に何が起こるのか、主人公はどうなるのか、ハラハラしながら先が気になってたまらず、どんどんページをめくっていった。ということは、とても面白い本だったのだろう。とっくに映画化されていることも知らずに、これこそ映画で観てみたいなどと思いもした。でも個人的には、なんとなく、どこか物足りなさがあったのは、登場人物たちの心情を色濃く感じ取る時間を持てないまま読み終わってしまったからかもしれない。
 それは私に感じ取る余裕がなかったからだと思う。あとから考えると、友人との関わり、親子の情、思い出を共有する今は遠い誰か、通りすがりの相手など、人と人の繋がりも個人個人の心情や人間性も絶え間なく描かれていたのに、出来事の流れを追うことに夢中で、よく噛んで味わうべきものを噛まずに飲み込んでいたのかと思うと残念である。しかしその時は次の皿にはどんな料理がのっているかを早く知りたくて急いでしまったのだ。自分がそんな読み方をすることもあるのだと分かったのだから、それを収穫と思うことにしよう。
 映画であれば、ページをめくるスピードは自分では決められないし、登場人物の表情や声、背景となる景色も向こうからやってくる。そう思うと、過去に観た伊坂幸太郎作品を原作とする映画たちは、映画化に最大限成功していたのではないかと思える。映画制作になどまるっきり関わったことのない身分で言えたことではないけれど。

ゴールデンスランバー (新潮文庫)

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ゴールデンスランバー [DVD]

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  • 発売日: 2010/08/06
  • メディア: DVD



 


家守綺譚 (梨木香歩)

 数年前に一度読み、簡単に言うと「最高」と感じた記憶がある。小説なのだろうけれど、おとぎ話のようなファンタジーのような、それでいて現実的な手触りのある不思議な、でも読んでいると妙に落ち着いた、温かい心持ちになる本だ。
 この本の中の好きなフレーズを書き留めておく。
「死んでいようが生きていようが、気骨のある魂には、そんなことあんまり関係ないんですよ」
「思い込みというのは恐ろしいものだ」
「だかとりあえずは思い込まねばな」

 そのうちまた読み直す気がする。
 こういうのを愛読書というのだろうか。




ことり (小川洋子)

 ことりとその歌声を愛してやまない兄弟の物語だった。
 兄は10歳のときに、弟以外の誰にも理解できない言葉しか話さなくなる。そして、両親が亡くなったあとは、兄が52歳で亡くなるまで兄弟二人きりで暮らすのだが、慎ましく内向的な生活の中で、小鳥の存在だけが明るさと豊かさを添えていた。
 小鳥の声に耳を澄ましたり、小鳥の様子を、つまりは小鳥の命をじっと見つめる時間を大切にすることのほかには、こんなに変化のない、住んでいる町から出ることもないような人生が、実際あるものだろうかと思ったが、少し考えてみると私自身の人生こそが内向的で自分の町から出ないようなものではないかと気がついた。若いときには何度か国内旅行をしたけれど、行き先は限られていたし、趣味と言えるほどのものもなく、成り行きで仕方なく結婚してからは日々家事を繰り返すばかりだった。
 しかし、誰にとってもこう生きなければならない、ということはなく、自分の生活に自分で納得できればそれでいいのだろう。こんな風に思えるのは、ここ数年で趣味は読書と言えるようになったことや、最近はDVDで、ではあるが、映画をよく観ているせいもあるのだろうか。人生は他者に認めてもらうためにあるのではない、と思う。そういえば「あん」という映画の中の言葉に「私たちは、この世を見るために、聞くために生まれてきたなら、何にもなれなくても生きる意味はある」というのがあった。
 人生の捉え方も、人それぞれで構わないに違いない。




均ちゃんの失踪 (中島京子)

失踪した均ちゃんの家に泥棒が入った、という状況から始まる表題作を筆頭に、「のれそれ」「彼と終わりにするならば」「お祭りまで」「出発ロビー」と四つの短編が続くのだが、登場人物と時間の流れを共有していて、全体で一つの作品になっている。
最初から面白かったけれど、「お祭りまで」で失踪した均ちゃんがいきなり登場したのには意表をつかれた。なぜ失踪したかの種明かしにもなっていて、思ってもみない理由に、静かに興奮しながら読んだ。
面白い本だった。面白かったし、何だかわからないけれど、すごくよかった。
とてもとても終わりが良くて、読後感がよくて、もう一度読みたいと思い、でも時間があまりなかったので、最後の「出発ロビー」だけを再読した。やはり爽快感が残った。何と言えばいいか、日頃なかなか受け入れ切れずにいるダメな自分や嫌な自分を、すんなり許してくれるような小説だったのかもしれない。なぜそう感じるのかは全く説明できなくて、自分でもそんな風に感じるなんて唐突だと思うけれど、とにかく、そんな気がしたのだ。小説を読んでこんな気持ちになったのは初めてだ。この先、二度三度と読み直す本になりそうな気がする。
      

嫁をやめる日 (垣谷美雨)

図書館で見かけて思わず手に取った。
初めて名前を見る作家だったが、タイトルに限りない親近感を覚え、これは読まなければと思ったのだ。
嫁姑の確執が描かれているのか、モラハラ夫が出てくるのか、それとも予想もしない展開なのかと、親近感の裏側で怖いもの見たさが見え隠れしているような、果たして面白く読めるのだろうかとほんの少し躊躇するような、そのくせ明らかに何かを期待しているような気持ちで一頁目を開いた。
すると、いきなり主人公の夫の葬儀の場面から始まり、夫に対して「嫁」をやめるわけではないのだなと、ほんの少しあてが外れたような気持ちになったが、それは本当に一瞬のことだった。夫はもういないのに「嫁としての役割」という名目で、婚家の都合を当然のように押し付けられる主人公が、不本意な状況を抜け出すために悩みながらも少しずつ前にんでいく道筋は、一人の人間の生き方として、読みごたえがあった。不本意な状況を抜け出したいのに、それを不本意と感じてしまうことに自体に罪悪感を抱くのは、その状況を構成している誰かに対する思いやりや愛情のせいなのだ。この物語が、そのことにはっきりと気づかせてくれた。どんなことも、客観視できずに自分の中で転がしているうちは、それの全体像などまったく見えないものなのだと実感した。アメリカに奴隷制度があった頃、その廃止に尽力した大統領の言った、「奴隷として生活している人間は、自ら轡(くつわ)に手を通す」という言葉を思いだした。この言葉と同様に、この本も、今の私を支えるたくさんのものの一つとなった。