小説の森を歩く

読んだ本の感想などを、心のままに綴っています。

ツバキ文具店 (小川糸)

この本は、友人が大好きな本だと言って紹介してくれたので、ぜひ読んでみたいと思っていた本てす。世の中の情報に疎い私は、NHKでドラマ化されたことも知らずにいましたが、やはり相当話題になった本のようで、図書館で予約したときはかなりの人数が順番待ちをしている状況でした。
この作家の作品はこれまでに二作ほど読んでいましたが、今回も私にとって読みやすく、共感したり登場人物たちを好ましく思ったりしながら読めました。
主人公の「代筆屋」という仕事に憧れのような気持ちを持ちながら読みましたが、それだけ小説の世界に入り込めたのは、物語を構成するあらゆる要素が、絶妙のバランスて心地よく配置されていたからかもしれません。鎌倉という舞台、そこでの主人公の暮らしぶり、登場人物たちの人柄と主人公との関わり方、主人公の後悔までもが素敵でした。今ふと思ったのですが、小説は作り話なのに「所詮、絵空事だもの」、という冷めた気持ちにさせない作家の力量というのは、私などには想像できない凄まじいものがあるのでしょう。
この本には続編だかスピンオフだか、そんなようなものがあると聞いたので、それも図書館に予約しました。順番が回ってくるのを楽しみに待ちたいと思います。





被写体の幸福 (温又柔)

確か2日前だと思う、NHKの「朗読の時間」にまた出会えた。
読まれたのは、おんゆうじゅう作(温又柔と書くことを後で知った)「被写体の幸福」だった。
台湾人の女の子が主人公で、幼い頃の祖父との関わりと、成長して日本に留学してからのこととが描かれていて、短編小説の中に長い時間の経過が含まれていた。そのせいか聞こえてくる言葉に色がついているわけでもないのに、昔の出来事は古い写真のように、現在の主人公は日の光の中に浮かんでくるのを感じながら最後まで耳を傾けた。場面がそのように浮かんだのは、話の中に「写真」が大切なキーワードとなって登場していたことが影響したのかもしれない。
聞き終わって、人を作っているものは何なのだろう、と考えさせられた。
人は自分を表すものをいろいろ持っている。
名前、性別、年齢、顔、国籍、、こうしたものは、でも、その人と他者を区別するための記号やカテゴリーにすぎない。
その人がその人であることを決めるのは何なのか。
以前、といっても結構最近だったが、自分の存在は他者との関わりの中でだけ成立する、という言葉を聞いた。高校の倫理の授業の教科書に出てくるような人物の言葉だった気がするが、たしかに人は、人間以外のものも含めた他者に、どう関わるか、という点においてのみ、自分を表現できるのだろう。「私は赤が好き」という場合、その私は「赤」という他者との関わりによって生まれるのだから。




沈黙博物館(小川洋子)

今考えてみると、この作家の作品には、舞台が一体どこなのか、はっきりとは判らないものが多かったように思う。
この「沈黙博物館」もそうだった。
どこかの村ではあるのだが、日本なのか外国なのか、どちらでもあるようでどちらでもないような、不思議な空間で物語が展開していく感じがする。登場人物たちも、自然な日本語を喋っているのに日本人ではないような、言ってみれば無国籍な空気を纏っているのだ。この作家の小説は、いつも心地良く読んできたが、それは作家の持つ表現力によるものなのだろうと思っていた。もちろんそれもあるのだろうけれど、どうもそれだけではなかったような気がする

この本は、亡くなった村人たちの形見を展示するための博物館を作り上げていく物語だったが、実際にそんな博物館が存在するとは考え難いし、物語の中に登場する沈黙の伝道師という存在も、やはり架空のものに思われる。私がこれまで生きてきた現実の中に、さらには想像の中にさえ決して表れなかったものや人が登場し、しかもそれらを中心に話が進んでいくのだから、異国のような印象を受けるのは当然なのに、その非現実的な世界が、日常の世界と何ら変わりないような素振りで綴られていて、しかも緻密で豊かな表現に満たされているところが、魅力ある心地良さを生み出しているのではないかと思う。
それにしても、人体の一部がナイフで切り取られてそこにある、という場面でさえ、この作家の手にかかると無気味さはなく、幾何学的描写としてすんなり読めることに感心してしまう。





間宮兄弟 (江國香織)

この作家は短編集を何冊か読んだことがあったが、長編は初めてだったかもしれない。
短編から受けたイメージとして、都会的な、あるいは知的な、または神秘的な大人の女性が登場するような印象があり、どの作品もスマートな雰囲気を纏っていたように思っていたのだが、「間宮兄弟」の主人公は、二人とも女性にまったくモテない兄と弟だった。
外見も冴えないし、仕事や趣味においても特に目立たって人の気を引くような要素はないのだが、つまりスマートな雰囲気などこの兄弟からは感じられないはずなのだが、それでもやはり江國香織の世界がそこにはあった。
兄弟の暮らしを、日常を、間近に見ているような気持ちで、こんな風に自分も暮らしてみたいと思ったりしながら、いつまでもこの小説の世界にとどまっていたいと望みながら読んでいだ。地味といえば地味で、普通といえば普通の(普通以上にモテない二人てはあるのだが)生活が、こんなにチャーミングに描かれているのは素敵だと思う。
小説を読むのは、現実逃避だったり非日常を求めるといった側面もあるけれど、求めているものは、実は日常の中に潜んでいるのだと教えてくれる小説もあるのだということに、改めて気づかされた。



にじいろガーデン (小川糸)

家族の物語であり、人生や恋愛を描いた物語でもあった。
出会いというのは、自分の意志でコントロールできるものではないと思う。友達や恋人なら、誰でもいいわけじゃなく、気の合う相手や好きな人を選んで付き合っているのかもしれないけれど、それにしたって実はものすごく狭い範囲で偶然知り合えた人の中から選んだに過ぎない。こう考えると、この人に出会えて本当に良かったと思える相手がいるなら、それだけで最大級にしあわせなのだと分かる。ならば、そう思える相手がいなくても、特別不幸というわけではないのだが、人がしあわせを、求めるのは自然なことなのだろう。
この物語の登場人物たちは、同性愛という少数派の生き方をしたことで、生活の上では苦労があったけれど、自分たちがしあわせだと知っていた。少数派であることに、負い目や引け目を感じる必要はないのだと心から思う。少数派を「普通じゃない」とするのは、多数派の横暴なのではないだろうか。それにおそららく大抵の人は、少数派の部分をどこかに持っっているようにも思える。

ママたちの下剋上

深沢七郎を読んでみようかと思い、図書館で「深沢」の棚を見ていて目にとまった。
タイトルからして、一体どんな話かと思ったのだが、何か劇的な展開があるわけではなく、小学校受験に執着する母親たちのことを、子どもはまだいない主人公の目を通して書かれていた。そしてこの主人公は、年下の夫の顔色ばかり伺っているような感じで、そのせいでやりがいも誇りもある大切な仕事をやめてしまうのだが、今時こんなに夫主導の夫婦があるのかと疑いたくなり、初版の年月を確認すると2016年だったので驚いた。
私自身、結婚してからは夫の要求に従わないとダメ人間扱いされるように感じてビクビクしながら、ほとんど言いなりになってきたのだが、そんな関係は夫婦としても歪んでいるのではないかと思っていたし、周囲には夫と妻が対等な家庭が多いようにも思っていたけれど、実際は、まだまだ昔の亭主関白のような家庭も珍しくないのだろうか。主人公が夫に気を使って、言いたいことを言えずに感情を押し殺している場面は、もどかしい気持ちだった。
話としては、お受験を題材にしている部分と、妻が仕事と夫との間で板挟みになっている部分が半々だった印象で、どちらかに重きをおいた、もっとドラマティックな場面を読みたかった気もする。





妻が椎茸だったころ

この作家が8年前に直木賞を受賞した「小さいおうち」の文庫本を、表紙に惹かれて買ったのを覚えている。すでに映画化されたあとで、表紙には、うつむき加減の松たか子の横顔と、それを少し離れた所から黒木華が見つめている写真が使われていて、その純朴で従順で芯の強そうな感じがやけに印象的だったのだ。
読んでみると「小さいおうち」は、気高さのない凛とした上品さ、のようなものが最初から最後まで漂っていて、とても読み心地が良かった。それなのに、これまでこの作家の他の作品を読まなかったのはなぜだろう。
「妻が椎茸だったころ」は図書館で見つけ、タイトルが気になって手に取った。短編集で、5つの話はどれも着地が巧妙だった気がする。ゾクリとしたり、意外な種明かしに納得したり、ほのぼのと温かい気持ちになったりするのだが、そこに導かれるまでに気高さのない凛とした上品さが漂っているせいで、余計に着地点が際立っているのだと言えるかもしれない。
心地よく作品世界に引き込んでくれて、物語の終わりを終わりだと気づかせないような本だと思う。

異邦人(アルベール・カミュ/窪田啓作訳)

たまには外国文学にも触れてみたいと思いながら、普段はなかなか手を出せずにいるのだか、一昨日図書館に行ったとき、カミュの.「異邦人」を借りてきた。薄かったのと、最初の数ページが読み易かったのとで、読んでみようと思えた。全ての文をすんなり理解できたわけではないが、主人公の物の見方、というのか、生き方というのか、そんなようなものが伝わってきて、人の生き方にパターンなどないのだと思えた。日頃、生き方にパターンがあると感じていたわけでもないが、人生とはこういうもの、とか、人は皆違うけれどその上で人間とはこういうもの、という枠組みを無意識のうちに与えられている気がする。その枠がどんなに広大で曖昧なものであっても、やはり枠には違いないのだろう。
この本の背表紙に、「通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求したカミュの代表作」とあるが、読み終えた直後はこの解説に違和感を持った。でも、私の思う「枠組み」は、「通常の論理的な一貫性」と言い換えられるのかもしれない。

青年のお礼

NHKラジオをつけていたら朗読のコーナーがあり、乃南アサの「青年のお礼」という短編を聞いた。
朗読を聞くという形で小説を鑑賞するのも、味わい深いものがある。聞き心地の良さはアナウンサーという語りのプロが読み聞かせてくれているからだとは思うが、自分以外のだれかの声で物語が伝わってくると、ストーリーをより客観的に捉えられる気がする。場面の情景が大きなスクリーンに映し出されるかのように胸に入ってくるから不思議だ。
「青年のお礼」は、とてつもない悲しみを背負ったふたりの人物が旅先で出会う話だった。しかし、出会うというほど大げさな感じではなく、ほんの1日、いや数時間、或いは一瞬かもしれない、お互いの悲しみを共有し、そのことが前向きに生きるための手助けになったのだと思える話で、さわやかな印象が残った。


貴婦人Aの蘇生(小川洋子)

一昨日、小川洋子著「貴婦人A の蘇生」を読み終わった。
小川洋子の描く世界は、いつも穏やかで優しく感じるが、それは描かれている世界そのものが穏やかで優しいから、ではないのかもしれないと気づいた。
どこかにある日常を描くとき、作者はそれを表現するために、一度その日常を受けとめなければならず、その受けとめ方が穏やかで優しいために、描かれた世界が穏やかで優しいものに映るのだろう。
博士の愛した数式」で小川洋子という作家を知って以来、いくつかの作品を読んできた。どれも緻密な優しさで満ちていて大好きだが、長編では「猫を抱いて象と泳ぐ」と「ブラフマンの埋葬」が気に入りだ。小川洋子作品はいつもそうなのだか、この「貴婦人A の蘇生」も読み終えてしまうのがもったいなく感じる物語だった。

山本周五郎中短編秀作選集1 --待つ--

文学賞に「山本周五郎賞」というものがあることを知って以来、いつか山本周五郎の作品を読んでみようと思っていた。それが実現したのが2~3年前だったろうか。
「さぶ」と、ほかにいくつかの短篇(藪の陰など)を読み、なんて美しい小説を書く人なのだろうと胸を打たれ、心洗われるような感動を覚えた。
1週間ほど前、図書館で「山本周五郎中短篇秀作選集」を見つけ、その「1」を借りてきた。
人は、どんな環境にどう生きていようと、決して一一人ではないのだ、ということや、固く信じていたものに裏切られるような形になったとしても、自分次第でいくらでも立ち直ること、前向きに生きることができる、ということを感じさせられている。
どう転がるか予想もつかないのが人生であり、「運命」という言葉は、人が歩いてきた道を振り返ったとき、自分で自分を納得させるためにあるのかもしれない、とも思った。